芸能考房

大学教授は「大学の職員」か?「一国一城の主」か?

青山学院大学准教授・瀬尾佳美の放言ブログが物議を醸している。瀬尾は所属や実名を明らかにしたブログで、「光市母子殺害事件の『被害者は1.5人(乳児は0.5人)』」「元少年殺されれば遺族は幸せ」という書き込みを行い、本人のブログは炎上。「2ch」では「祭り」状態となった。
インターネット上では、拉致被害者、道路交通法違反、中越沖地震など、彼女の他の見解も次々明らかにされた。書かれている内容を見れば、人々の多様な価値観や立場や事情を無視した、救いのない悪口雑言が目立つ。

ただ、議論となっているのはそこから先で、瀬尾の所属する青山学院大学の学長が、対外的に謝罪のコメントを出したことに対して、一部の学者が批判をしているのだ。

例えば山形大学・准教授の天羽優子は、「教員の学外での発言まで学長権限で制限する」ことに対して、「(大学が、)本来ならば教員個人が負うべき責任を負い切れると考えているのならば、それは思い上がり。しゃしゃり出て謝罪するなど、勘違いも甚だしい」と言う。

また北海道大学の教員は、「個人がブログに思いをつづることと、活字メディアに見解を発表すること、さらには学術論文として発表することは、どれも思想の自由、言論の自由に属する行動であり、大学が所属教員に対して介入することが最も不適当な領域である」と指摘した。

学者たちは、学問の自治、大学人の「言論の自由」を守る立場があるから、そう発言するのはもっともだと思う。

ただ、瀬尾は青山学院准教授の肩書きでブログを運営している。だから、大学側が「使用者責任」を自覚して謝罪する分には、一概に「思い上がり」とはいえないと思う。それは、ゼミ生など無関係な被害者を守ることにもなるのではないだろうか。もし、学校当局がメディアの取材に対して「一教授のブログの問題であり、私たちは一切関知しません」などと紋切り型に突き放せば、その方が、よほど世間の怒りを買うだろう。

また、大学は瀬尾のブログを事前に禁じたり検閲したりしているわけではない(と思う)。今回も、瀬尾が好き勝手に書いた結果に対して謝罪したのだから、北大の教員が言うような「介入する」という表現は必ずしも適当ではないと思う(今後は事前のチェックが入るのかもしれないが)。

私が思うに、この争点のポイントは、大学教授の立場をどう捉えるかということにありそうだ。大学教授には、自分たちは専門職者であり、大学に支配される立場ではない一国一城の主、という考えがあるのではないだろうか。

かつては発光ダイオードの発明者が、自分への利益配分が少ない裁判の判決に、「日本は文系社会」と捨てぜりふを吐いた。しかし、それは別に「文系」だからではなく、司法が「企業あっての職員」という見方をしたのであり、技術者でなくても誰であっても同じ結果だったのだと思う。

正直言って、技術者や専門職者だからといってその独立性ばかりを強調するのは、サラリーマンが過半数を占める日本の労働者の感情には馴染みにくいものだと思う。サラリーマンが会社の外で不祥事を起こし、会社から注意を受けたり、場合によっては懲戒処分を受けたりすることはある。大学教授だってその大学の職員なのだから、そうしたことがあってもおかしくはないと考えるからだ。
ましてや昨今は、知名度のあるタレントが、研究実績もないのに教授に任命されるケースが目立つ。それは、「大学の一員として広告塔的役割を果たす」ためだ。従来の教授だけが、大学のことなど無配慮に好き勝手に自分の研究や表現活動だけしていればいい、というわけにはいかないだろう。

簡単に答えは出ない問題かもしれないが、私が思うに、少なくとも大学の教授は、○○学者であるのだから、個人的見解をより自由に表現したいブログをやりたいのなら、大学教授の肩書きを掲げるのではなく、一介の○○学者、もしくは私人として発言すべきだと思う。

それにしても、瀬尾の報道の仕方も気になった。

「青学大 美人准教授、ブログ大炎上!」(4月29日10時0分配信 日刊ゲンダイ)

発言の内容が問われている時に、なぜわざわざ「美人」という紹介をする必要があるのだろう。メディアも自身のセクハラ紹介に疑問を抱かないようでは、瀬尾の放言をとやかく言う資格などない。(文中敬称略)
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