芸能考房

あなたは、これでも体罰を肯定しますか?

天龍源一郎という人気プロレスラーが自らの人生をふりかえった(東邦出版)がファンに好評だ。 がファンに好評だ。
なるほど、相撲・プロレスと40年以上格闘技に関わってきた者の人生観は一読に値するだろう。だが、同書はファン以外でも注目すべき件がある。時津風部屋事件で取り沙汰された、相撲部屋の「かわいがり」について、さりげなく、だけれどもリアルにその様子が述べられているのだ。

「昨今、話題になっているかわいがりですけど、金属バットが出てくるようなのは、かわいがりでなくてただのイジメ。かわいがりは、角材、竹刀が出てくるんです。『今の時代、今の人たちに、かわいがりは必要ですか?』と聞かれれば、全然必要じゃない。あれは人間がいじけるだけ。『この野郎』っていう根性を植え付けられるかも知れないけど、丸かった性格に角を作って偏屈にしますよ」(215ページ)

天龍は「かわいがり」について、入門直後の13歳のときに目撃しただけでなく、自分も大鵬の付き人だった16歳のとき、兄弟子から言いつけられた、大鵬が景色を見るための双眼鏡を巡業に忘れたために経験したと述べている(216ページ)。

天龍によると、「かわいがり」は、その力士のしくじりが原因で、「おい、お前、明日かわいがりだよ」と「ある日突然くる」という。少々長くなるが、そのリアルな記述を引用する。

「(根室の野球グラウンドの)石でボコボコしている外野のところに丸を書いて。パートナーと稽古を始めたら、竹刀、青竹、角材をもった兄弟子3人に囲まれ、どこか悪いところがあるたびに『何やってんだよ!』って、バシーンって殴られる。(中略)よく無事でいられたなってくらいやられた。頭、背中、尻。ところかまわず、角材が折れるほど力いっぱい殴られました。角材って、折れたらいいんだけど、ひびが入ったまま殴られると肉にひびが刺さってキッい。ぶっ倒れると口の中に塩を突っ込まれ、無理やり稽古を続けさせられる。口の中はザクザクに切れてるから、もう焼けるように痛くて苦しい。グラウンドに叩きつけられ、なんとか起きあがろうとすると、頭と腹をボコボコ蹴飛ばされる。僕が13歳のときに見たまんまをやられました」(219?220ページ)

叩かれるうちに疼痛の感覚もなくなり、尻は「気持ち悪いくらい紫色になっていてブヨブヨ」。背中をさわると、「肉に深く刻み込まれたミミズ腫れが15本くらいあって、血まみれの髪の毛はちょっとさわっただけでボロボロ抜ける」有様。風呂にも入れず、電車の座席にも座れない辛さだったが、「かわいがり」を執行した兄弟子たちは、「翌日はもう何もなかったように接してきて、『どうだい、きつかったか? これでお前も一人前の相撲取りだよ』『これで一人前の相撲取りだな。かわいがりっていうのはやらないと分からないんだよ』」などと言ったという(220ページ)。

しくじりが多ければ、これを2度、3度と受けるのだろうし、同じ間違いを繰り返せば、「かわいがり」に苛立ちも加わり、より凄惨なものにエスカレートするのだろう。これでは、時津風部屋の事件は、起こるべくして起こったと言われても仕方あるまい。

こうした行為を「暴力」と呼ぶことに間違いはないが、突発的に起こる傷害事件や喧嘩の類とはやはり少し違う。厳密には「体罰」と呼んでそれらとは区別して考えるべきだろう。

スポーツや教育界には、体罰が当たり前のように蔓延っている。明治大学で自殺者が出た応援団や、バレーボールの全裸練習事件、戸塚ヨットスクールや進学塾のようなスパルタ式のいわゆる私教育、さらに学校教育(公教育)など、様々なところで体罰は問題になっている。

なぜ、スポーツや教育界に体罰が横行するのだろう。それは、根強い体罰肯定?しかも体罰否定論を激しく否定する?の体質があるからだ。だが、それは決して宿命的に存在していたわけではないようだ。

『紙の爆弾』(2008年2月号)という雑誌で、角田裕育がこう指摘している。
江戸時代以前の武士道には「体罰」などという概念はなく、明治維新後に欧米の教育を持ち込んだ際に「導入」されたものである。だが、今や欧米も脱体罰の流れにある時に、日本だけが体罰肯定にしがみついていると。

これは、必ずしも武士道が現代の文化や価値観よりも全面的に優れているという意味ではないだろう。封建社会における武士道では、しがらみや葛藤を論理的に昇華したり、自由な言論で疑問や批判を語って社会に反映したりすることはあり得ない。

欧米の教育を持ち込んだ際に「導入」されたということは、おそらく富国強兵や国力増強の進軍ラッパとして使われてきたことが窺える。

つまり、体罰とは、いわば資本主義と民主主義の生成期に発生した「残りカス」であるが、現在もそれが温存され再生産されてのさばっている、と筆者はとらえている。だから「体罰肯定」の日本というのは、民主主義は導入されたが、同時にそれは残念ながら熟していない段階ともいえるのではないか。

体罰事件があった場合、当事者責任を求めるのは当然だ。しかし、天龍を「かわいが」った兄弟子を見てもわかるように、おおもとにある体罰を肯定する考え方は、競技者の原罪でもなく、その競技に還元すべきものでもない。それは、社会的に作られ刷り込まれてきた(反動)思想であると見るべきだ。

大切なことは、それがいかなる狙いで持ち込まれたのか、そして、その思想がどのような人々によってこんにちまでどう再生産されてきたのか、つまり社会的要因を見ることである。少なくとも、暴力を憎しみ体罰体質を憂うのなら、そこに言及するのはあるべき道筋だろう。

そうした真相究明のためにも、逮捕された元時津風親方や兄弟子たちが事件について真面目に供述することはもちろんのこと、大相撲協会の関係者も、自分たちの考え方や稽古の実態を世間に明らかにすべきである。さらに、私たち一般の国民も、時津風部屋のような事件をただの三面記事として見るのではなく、これを機会に体罰について率直に考えてみてはどうだろうか。

七勝八敗で生きよ

七勝八敗で生きよ

  • 作者: 天龍 源一郎
  • 出版社/メーカー: 東邦出版
  • 発売日: 2007/12
  • メディア: 単行本
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