『夕顔の雨』は三部作に続く叙情詩ソング

『夕顔の雨』は、学園歌謡三部作に続く森昌子4枚目のリリースである。前にも書いたように、阿久悠氏によると、『せんせい』ができた時点で『同級生』『中学三年生』もできていたというから、それらでひとつのプロジェクトだったと見ることができる。

では、それが終わったところで今度は森昌子に何を歌わせるのか。

抒情詩ソングだった。その第一弾が『夕顔の雨』である。

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一応「三部作」としたプロジェクトだったが、4枚目も引き続き阿久悠氏が作詞、遠藤実氏が作曲を担当した。

『夕顔の雨』(1973.5.5)

夕顔の雨
夕顔の雨/待ちぼうけ
作詞者:阿久悠
作曲・編曲者:遠藤実(編曲:只野通泰)
ミノルフォン

向学心がありながらも事情で進学できなかった遠藤実氏は、その無念さを学園もので晴らすべく、舟木一夫の『高校三年生』や、森昌子の学園もの三部作を作ったと、新井恵美子氏の『女たちの歌』には書かれている。

ミノルフォンの総帥・遠藤実氏の構想には、森昌子に本格演歌を歌わせるという選択肢はなかったようだ。

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これは森昌子が演歌歌手として使えないということではなく、年齢によるところが大きかったと思われる。

演歌は、たんに歌詞を曲に合わせてうまく歌えばいいというものではない。

この時点で14歳。サラリーマンの子弟で公立中学に通う森昌子に、人の性や情念を歌わせるのは確かに早かったかもしれない。少なくとも聴く者にとって説得力のある年齢ではなかったとは言えるだろう。

その後演歌歌手として隆盛を極めるわけだが、少なくともこの時点、学園もの三部作でスタートした森昌子が本格派演歌歌手にシフトするまでは、日々の景色や肉親などを思う叙情詩ソングが作られたわけだ。

また、そのほうが十代の彼女にもよかったのではないだろうか。

森昌子が歌手になったのは、もともとノド自慢荒らしの父親が彼女に歌わせたからである。

森昌子は「歌わされた」という思いから、この頃、本心ではあまり歌うのは好きではなかったと自著で述べている。

両親健在の普通の家庭で育ち、まだ中学生の彼女に、何のために歌うのかという人生哲学のようなものも確立していなかったろう。

そんな彼女を育てたのは、マネージャーの市村義文の力があったからと業界ではいわれている。

たとえば、森昌子のドングリヘアは、市川義文が当時人気があったジャネット・リンのようにするといって、泣いて嫌がるオカッパヘアの彼女を美容院に連れて行って実現したという(『テレビ人生!「そんなわけで!!」録』)。

成功するには本人の力だけでなくよいスタッフに恵まれることも重要である。

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