『最後のクレイジ-犬塚弘ーホンダラ一代、ここにあり!』(講談社)が話題になっている。文字通り、クレージーキャッツで唯一健在の犬塚弘が、自らの人生やクレージーキャッツについて振り返ったものだ。直後に刊行が始まった『東宝昭和の爆笑喜劇』DVDマガジンで、クレージーキャッツの映画を集中的に取り上げているので、相乗的に注目が集まり再評価されているのかもしれない。
クレージーキャッツ。1960年代から70年代前半にかけて一世を風靡したグループであるから、もちろん過去にもいろいろな著書は出ている。
たとえば、Amazonで「クレージー」または「クレージーキャッツ」で検索すると、今回の犬塚弘の本を含めてこれだけ出てくる。(『東宝昭和の爆笑喜劇』は除く)
映画が夢を語れたとき―みんな「若大将」だった。「クレージー」だった。
- 作者: 田波 靖男
- 出版社/メーカー: 広美出版事業部
- 発売日: 1997/07
- メディア: 単行本
植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」 (小学館文庫)
- 作者: 戸井 十月
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2010/03/05
- メディア: 文庫
これらをすべて読めば、今回の『最後のクレイジ-犬塚弘ーホンダラ一代、ここにあり!』に出てくるエピソードのうちの多くのものは出てくる。
にもかかわらず、今回の著書が話題なのはどうしてか。
DVDマガジンとの相乗効果以外には、クレージーキャッツの最後の“生き残り”が振り返っていることから、噂や第三者の証言ではなく、ハナ肇の女房役(相談役)だった当該メンバーが語るリアルさとともに、「いよいよクレージーのメンバーがクレージーを語る最後の機会なのだな」という読者側の覚悟や寂寥感のようなものもあるのではないだろうか。
というわけで、これが目次構成である。
序章 犬塚ヒロムという男
第1章 ヘイ、クレイジー
第2章 ジャズからコメディへ
第3章 「シャボン玉ホリデー」と「スーダラ節」
第4章 ニッポン“クレイジー”時代
第5章 ジャパニーズ・インディアン
第6章 それぞれの歩みへ第二の人生
最終章 いつまでも、クレイジー
印象に残ったことを枚挙すると、
バンド時代の人間模様
古澤憲吾監督との“確執の真相”や山田洋次監督への思い
絶頂の頃だった60年代東宝映画の思い出
仲間思いのメンバーとそのリアルなキャラクター
人気絶頂だったはずの植木等の苦悩
などだ。
何度読んでも飽きないし、また読んでいるうちに当時を思い出して胸がいっぱいになる。
そこには、犬塚弘の真面目な語り口、クレージーキャッツの仲間思いの人格や古き良き時代へのノスタルジーなど、さまざまなエッセンスが詰まっているからだ。
クレージーキャッツの笑いは「大人の笑い」
この記事を書いている私自身がそうだが、クレージーキャッツは「遅れてきた」ファンがいる。
全盛期を過ぎたクレージーキャッツの価値を再評価して、書籍や映像など過去の資料でそれを裏付けていくファンである。
その人たちは、昭和の笑い、クレージーキャッツの笑いを知っていてるからこそその価値に気づく。
しかし、平成しか知らない世代には、それが伝わらないかもしれない。
全く関係ないが、吉本のベテランが4年かけて全国47都道府県をまわるツアー「漫才のDENDO」について、中田カウスがこんな話をしている。
「吉本興業が100年の歴史の中で作った最高傑作が『漫才』という笑いなんです。今のテレビのように1分間で何回笑わせるかというバラエティーもええけど、15分かけてじっくりやる漫才師の本気の舞台にも触れてほしい。肌で感じる匂いや色などを見れば庄倒されるし、見るたびに違う顔を見せてくれるはず。どんだけテレビがきれいになろうが、やっぱり本物にはかなわないんですよ。大阪には花月がありますけど、なかなか生の舞台に触れる機会が潔い地域の方にもこのツアーでぜひ見てもらいたい」(『日刊ゲンダイ』2013年12月6日付)
なぜ引用したかというと、「今のテレビのように1分間で何回笑わせるかというバラエティーもええけど、15分かけてじっくりやる漫才師の本気の舞台にも触れてほしい」というくだり。
ここに、昭和と現代の「テレビ文化」の違いが、よく表現されていると思えるのだ。
たとえばドラマ。昭和のドラマは半年や1年かけてひとつの作品を完結させたが、今は1クールから端を取った10回、ないしは11回である。
だから、昭和のドラマはゆっくりと「ダレ場」を作って話に緩急をつけることで、ヤマ場をじっくり味わうことができた。
しかし、今は短期間にドラマを完結させ、その上瞬間視聴率なども見られるから、つねにヤマ場を求められるメリハリのないドラマづくりを余儀なくされている。
しかも、ヤマ場に対して視聴者は慣れてしまうから次第にエスカレート。つまりインフレ化してしまう。
それによって、今のドラマは、自ら作ったそのエスカレートした流れに応えられず「荒唐無稽」に走るか、「物足りない」展開に終わるか、安易に昔のものをなぞって「時代にそぐわない」結果になってしまうか、のどれかで、結局いずれにしても「今のドラマはつまらない」という結論に陥ってしまうのだった。
バラエテイも同じことで、ダレ場のある漫才や喜劇では「待っていられず」、瞬間的な笑いを取りに行こうとするから、「笑わせる」のではなく「笑われる」選択も厭わなくなり、拷問やヤラセなど手段を選ばなくなるほど現場は追い詰められてしまっているのだ。
その意味で、クレージー・キャッツの笑いは「大人の笑い」である。そして、洒落た笑いであり、笑われるのではなく笑わせる笑いである。
1分間にどれだけ「笑われるか」ということを見るのではなく、ひとつの作品、ひとつのシーンのひねりや破天荒さやナンセンスさを感じ取るように笑うものだ。
そういう意味では、「日本一」「無責任」「クレージー作戦」等の映画はまさに「喜劇」であり、DVDマガジンが銘打っているような「爆笑」という宣伝は、今の視聴者には誤解されてしまうかもしれない。
たとえば、『最後のクレージー犬塚弘』の中で、谷啓が、ハナ肇のお通夜の時、靴下を脱げそうにして何かを訴えるようにしているので足を見ると「お先します」とあったと書かれている。
つまり、列席する前から谷啓はそれを準備していたわけである。それ自体が笑ってしまう。
瞬間的な笑いではなく、仕込んだ笑いである。
80年代以降、斯界のトップを行くビートたけしが、過去一番印象に残るテレビ番組に『シャボン玉ホリデー』を挙げ、実際に自分でも『OH!たけし』という類似番組をつくったが、『シャボン玉ホリデー』のようなテレビ史に残る番組には育たなかった。
クレージーキャッツという存在は、不世出という言葉がぴったりなのかもしれない。
いずれにしても、論より証拠で読むべし、の一冊である。
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