『喜劇駅前探検』(1967年、東京映画/東宝)は、全24本作られた喜劇駅前シリーズの第20作目である。このくらい作られると、作る側はマンネリを心配して新機軸を模索するが、本作は、藤本義一が脚本、結婚して降板した淡路恵子に代わって中村メイコの起用、山茶花究が出演者表示の「トメ」(最後)に抜擢されるなどの目新しさがある。(画像は劇中から)
喜劇駅前シリーズ(1958年~1969年)は、社長シリーズ、東宝クレージー映画、加山雄三の若大将シリーズとともに、1960年代の東宝の屋台骨を支える、明るく楽しい東宝らしいコンセプトの人気シリーズの一つである。
第1作は『駅前旅館』。「喜劇」とはつかず、井伏鱒二の同名の原作を脚色したものだった。
それが、3年後に制作された第2弾の『喜劇駅前団地』から、実在する土地の、実在する出来事を扱った書き下ろしの喜劇映画としてシリーズ化(全24作)された。
そして、この頃(本作)になると、舞台も実在するところではなく、全く別の原作も使われるようになった。
本作『喜劇駅前探検』の原作は桑田忠親の『日本宝島探検』(光文社)。
脚本は、後に作家や司会者として活躍した藤本義一(1933年1月26日~2012年10月30日)である。
そして監督は、小津安二郎を師事した松竹出身の井上和男。
喜劇駅前シリーズは、森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺という3人の男性陣が主演格だが、女優陣も淡島千景、淡路恵子、池内淳子と3人がレギュラー出演していた。
が、この年に淡路恵子が萬屋錦之介との結婚で休業。代わって野川由美子がレギュラー入りし、さらにこの作品には中村メイコも出演した。
年代的には淡路恵子よりも若くなったが、本作で中村メイコは、伴淳三郎の後妻という設定になっている。
なかなか興味深い顔ぶれである。
京塚昌子、山茶花究、野川由美子、中村メイコら新顔登場
山師(森繁久彌)、考古学者(フランキー堺)は、同床異夢で「宝」を掘り当てたい人々。
山師(森繁久彌)の息子(松山英太郎)も考古学者(フランキー堺)の助手をつとめており、山師(森繁久彌)の妻(京塚昌子)は、大学を卒業した息子(松山英太郎)が背広も買えずいまだに学生服であるほどの貧しさに苛立っている。
山師(森繁久彌)が、かつて自分が宝の山を掘り当てた一つ話を自慢すると、京塚昌子は「そんなことも、ありましたね」とバカにしたように、呆れたように言うのだが、このセリフ回しが実に巧い。
後に『肝っ玉かあさん』で、テレビのホームドラマの大御所に上り詰めたが、東宝の喜劇時代の京塚昌子も彼女にとっては貴重な芸歴であると思う。
本作の京塚昌子は、石井ふく子の世界である『肝っ玉母さん』とは全く違う、不平不満たらたらのヒステリーキャラクターで笑える。
そして、質屋(伴淳三郎)とその後妻(中村メイコ)。
学問はないが、お金を持っており、さらに儲けたいと考えている。
そして、作家(池内淳子)の4人は、割烹旅館女将(淡島千景)の家から出てきた古文書に書かれている、豊臣家の軍資金3万7000両の埋蔵金を目当てに、旅館の地下を掘りはじめるのだ。
埋蔵金の発掘場所を告げる祈祷師姉弟(野川由美子、雷門ケン坊)も、その騒動に一役買っている。
そのような話に人間は弱いのだろうか。
堅実な生活を望んでいた山師の妻(京塚昌子)までもが、埋蔵金を掘り当てた後の贅沢な暮らしを夢想しているのだ。
一方、肝心の女将(淡島千景)は、その古文書は、自分の先祖の敵のものだとして、当初埋蔵金採掘に加わらなかったが、ペテン師グループ(三木のり平、山茶花究、砂塚秀夫)の口車に乗り、こちらも競うように採掘を始める。
当時の映画は、役者の格がはっきりしており、作品のオープニングで、誰がどの順番でどの位置で表示されるかが重要だった。
『喜劇駅前探検』のトップは、もちろん森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺の3人で、それに次ぐのがヒロイン群、淡島千景、池内淳子、野川由美子、中村メイコであるが、もうひとつ重要なところである「トメ」は、三木のり平と山茶花究である。
主演3人に次ぐ格の三木のり平はともかくとして、山茶花究がこれだけのメンバーで「トメ」というのは抜擢と言っても良い。
東宝の明るく楽しい社風にちょうどいいカタキ役のキャラクターである山茶花究は、東宝が制作した青春学園ドラマである『青春とはなんだ』『これが青春だ』『でっかい青春』と、3作続けて悪役でレギュラー出演している。
森繁劇団にいたこともあり、森繁久彌主演の喜劇駅前シリーズ、社長シリーズなどにも多数出演したが、もともと確固たる左翼思想をもち新劇志向だったといわれる。
そのせいか、芸に対しても神経質で、『東宝昭和の爆笑喜劇DVDマガジン』には、三木のり平の息子である小林のり一のインタビューによると、山茶花究は撮影現場では不機嫌だったと書かれている。
それはともかく、彼らがせっせとお互いを出し抜き合いながらいろいろ努力もするが、結局埋蔵金は出てこなかったという話である。
人間が欲にかられて迷走する喜劇というわけだ。
批評家によれば、邦画は、喜劇とつくとつまらなくなるという意見もある。
しかし、本作のような「喜劇」は、ザ・ドリフターズのコントのような「爆笑」ではなく、考えさせる笑いなのである。