『乱れ雲』(1967年、東宝)は、男女の深く高度な機微を描く第一人者であった成瀬巳喜男監督の遺作である。自分の夫を交通事故で死なせた男を好きになっていく……しかし加害者と被害者という過去は変えられない。司葉子が匂い立つ美しさで葛藤を演じる。
『乱れ雲』のあらすじから追ってみよう。
由美子(司葉子)は、通産省官僚である夫(土屋嘉男)のアメリカ行きが決まり、自身は懐妊もして夢いっぱいであった。
しかし、姉夫婦(草笛光子、藤木悠)の家に寄った帰り、夫は交通事故で急死する。
ひいたのは、貿易会社社員の史郎(加山雄三)が運転する車で、パンクによる不可抗力だった。
由美子(司葉子)は突然夫をなくしただけでなく、夫の実家からは離籍され(旧民法の時代)たことで、戸籍上も婚姻関係なかったことにされ、遺族年金の受給資格を失う。
さらに、胎児は堕胎を余儀なくされる。
一方、史郎(加山雄三)は裁判で事故自体は無罪になったものの、官僚を轢殺した事実から常務(中村伸郎)は青森へ転勤を決める。
史郎(加山雄三)は常務の娘(浜美枝)と婚約していたが、それも娘自身の口から解消を言われ、こちらもほぼすべてを失った。
史郎(加山雄三)は、自分の給料から毎月1万5000円を10年間由美子に支払うと、由美子の姉文子(草笛光子)に約束する。
由美子(司葉子)は、まるで生活の援助を受けているようで、それが嫌だった。
やがて1年たち、由美子も東京の生活が辛くなり、亡兄の連れ合い(森光子)が切り盛りする青森の実家の旅館へ帰った。
そこで、史郎をたずね、もう忘れたいからといって、直近の送金を返金し、今後の送金も断る。
史郎(加山雄三)は、自分の行為が受け入れられないことを辛いと母親(浦辺粂子)に打ち明ける。
義姉(森光子)は妻子ある男(加東大介)をパトロンにし、2人は男の都合から地元の役人(草川直也)との縁談に熱心で、由美子(司葉子)は自分の居場所もなかった。
そんなとき、由美子(司葉子)飲酒で酔っ払っているところを史郎(加山雄三)に見られ、顔も見たくないからどこか遠くに行ってくれと言い放つ。
気持ちが真っ直ぐな史郎(加山雄三)は、それを額面通り受け止めて転勤を希望すると由美子(司葉子)に告げる。
青森支所長(小栗一也)を落胆させるが、東京に戻れるよう上司(中丸忠雄)が画策する。
が、それは裏目に出て、転勤先は西パキスタンになってしまった。
いったん出世コースから外れたものは、便利屋のドサ回りになってしまうのてサラリーマン社会の常である。
史郎(加山雄三)は旅館にライターを忘れていったので、由美子(司葉子)が暴言の謝罪を兼ねてそれを渡した時、最後に十和田湖の案内を頼み、由美子(司葉子)もそれを承諾する。
しかし、当日は史郎(加山雄三)に発熱があり、また現地の激しい雨で、倒れてしまった。
必死に看病するうち、史郎(加山雄三)へのおもいが高ぶった由美子(司葉子)は、思わず史郎(加山雄三)の手を握りしめ、また史郎も由美子(司葉子)の手を握り返した、
深い因縁があるにもかかわらず、悪気のない真っ直ぐな気持ちの“若大将”にどんどん惹かれていく由美子。
出発前日、史郎(加山雄三)は由美子(司葉子)に求愛をするものの、いったんは拒む。
しかし、1日悩み、結局、由美子は自分から史郎のアパートに……
史郎が発つ前に到着できた由美子の表情は、司葉子の芸能生活最高の表情といっていいだろう。
しかし、結局この禁断の愛は結実しなかった。
2人が結ばれようとするときに、
交通事故のけが人を運ぶ救急車を見てしまった。
2人は、過去の不幸を乗り越える唯一のチャンスを失ってしまった。
事故は被害者の妻だった由美子(司葉子)は、このとき初めて史郎(加山雄三)に謝罪する。
私のことが原因で西パキスタンへ……。
もちろん、本音は、「乗り越えられなかったこと」を謝罪している。
しかし、史郎(加山雄三)は、その謝罪こそが2人の関係の終焉と解した。
由美子にとって憎んで余りある自分が、尽くすことで振り向いてもらえる愛だったのに、謝罪されたらその前提が崩れてしまうからだ。
史郎は寂しく青森を発った。
現実的かどうかではなく、現実に書ききることの凄まじさ
この映画は多くの人から注目され、ネットには多数のレビューが書き込まれている。
中には、「設定に現実味がなく感情移入ができなかった。いくらなんでも自分の夫を轢き殺した男にそういう感情を抱く女がいるだろうか。」という意見もあった。
現実味がないということは、「そんなことあってたまるか」⇒「あってはならない」というレビュー者の価値観に過ぎない。
そして、「あってはならない」からこそ、それをいかなる批判や疑念があろうが描ききるのが、作家であり演出家であり俳優ではないだろうか。
たとえば、不倫はインモラルである。
もしかしたら、配偶者から夫(妻)権の侵害で提訴されることもあり得るだろう。
つまり、「あってはならない」ものである。
しかし、だからといって、小説や映画やドラマが描くべきでない、もしくは描いたって仕方がないものだろうか。
良くも悪くも、普通では考えられないようなことについて、それをせずにおれないこんな理由がある、ということを書ききるのが創作物の妙であり、「そんなことあるわけないだろう、つまらん」といって入り口で閉ざしてしまったら、そこからはなにもうまれない。
ストーリー的には、男が、悪気を知らない一本気な“若大将”だからこそ、このストーリーが成立してということがいえる。
だから、加山雄三というのも適役である。
人間は弱い。
義兄(藤木悠)が自分を狙い、実家に帰れば義姉は男を作り、自分に縁談を迫ってくる。
そんなときに、純粋で一本気な男性を見たら、「加害者」というハードルはあっても、一人の男として好感を持つのは人としてきわめて順当な展開ではないだろうか。
ましてや、轢き殺したときから、少しずつ時間はたっている。
悲劇は風化し、一方でその間も生身の人間(加山雄三)との関わり合いは積み重ねが続いている。
そりゃ、時間がたてばたつほど、進行形の関係が優勢になってくるだろう。
もちろん、時間はたっても、加害者と被害者、という関係は変わらない。一生変わらない。
だからこそ、これは究極の葛藤なのである。
そして、何よりも司葉子が匂い立つような美しさである。
だから、観る者が、幸せになってほしいという思いで見る。
由美子(司葉子)が笑ったり、史郎(加山雄三)のアパートへ自分の意志で訪ねていったりしたときは、過去の不幸を乗り越えるならそれもいいじゃないか、という気持ちになる。
同作は、上映の7年後、『もうひとつの愛』というタイトルで、やはり司葉子主演で相手役を黒沢年雄にして同じストーリーで東宝がテレビドラマ化している。
女性としての7年は決して短くない。
7年後も、また同じ役ができる司葉子の魅力は、それだけ大きなものなのだろう。
ちなみに、黒沢年雄の恋人は酒井和歌子で、浜美枝のように薄情ではなく、黒沢年雄を「負けちゃダメよ」と励ましているのも興味深い。
みなさんは、もし史郎や由美子の立場だったら、相手を愛せるだろうか?