『どですかでん』(1970年、東宝)は、ごみの集積所の一画に形成されたガレキ街を舞台に、市井の人びとの生活を描いた群像劇である。山本周五郎の小説『季節のない街』が原作で、黒澤明監督が初めてカラーで撮った作品として知られている。
『どですかでん』とはなんだ
『どですかでん』というタイトル名は一風変わっているが、知的障害がある主人公・六ちゃん(頭師佳孝)が日課とするエア都電運転で、電車の走る音を表現した擬音である。
『どですかでん』は、黒澤明監督が初めてカラーで撮った作品(140分)。
木下惠介・市川崑・小林正樹の各氏と結成した、四騎の会の第1作である。
原作は、山本周五郎の小説『季節のない街』。
貧しくも、精一杯生きる人々の飾らない生活を明るいタッチで描いた。
邦画ファンなら、少なくとも名前ぐらいは聞いたことがあるだろう。
といっても、必ずしもいい評判ではないかも知れないが。
率直に述べると、『どですかでん』は、“黒澤明の凋落の契機となった失敗作”という評価もある。
要するに、不入りで内容の評判も悪かったということだろう。
たしかに、ネットでざっと見ただけだが、8対2ぐらいで否定派が多い気がする。
その理由は主に、
- 黒澤明はオーソドックスに大作を撮っていればいい。
- 登場人物が変人ばかりで、生活ぶりも気味が悪く結末も救いがない
- カラーを意識しすぎて色使いが気に入らない。
といったところだろうか。
私は結論から述べると、この映画『どですかでん』は面白いと思う。
何度見ても飽きない。
人間なんてみんなおかしなところがあり、些末なことに悩んだり目くじら立てたりしているだけじゃないか、という悟りを、シニカルに描いている作品であると思ったからである。
作品は「変人」が描かれているように見えるが、実は“良識ある一般市民”と紙一重であり、変人は悪人ということではない。
何より、必ずしも救いがないわけではない。
一部、救いがないように見えるものもあったけれども、それも含めて私たちの社会は、死・貧困・愚かさで回っているということを淡々と描いている。
むしろそうした酷評を承知で、そのプレッシャーに負けずにあの世界を描き切った黒澤明という人に私は敬意を表する。
黒澤明監督の後半の作品を見ると、実はそうした山本周五郎の世界を描きたかったのではないか、という気がする。
脚本家の宮藤官九郎氏も、『人気脚本家・宮藤官九郎がこっそり教える、人生で何度も見返す映画3選』として、「1本目」に『どですかでん』を挙げている。
賛否両論ではあっても、まあ、分かる人にはわかるのである。
個性豊かな登場人物たち
本作は、黒澤明監督の初のカラー作品と述べたが、たんに色が漠然とついているのではなく、色で人物を分けた演出が行われている。
前衛的な黒澤明監督の色彩センスは、モノクロの作品をずっと見てきたフリークには眩しすぎるかも知れない。
そのような精緻な作品の登場人物を見ていこう。
冒頭から登場する、かき揚げ屋の一人息子である六ちゃん(頭師佳孝)は知的に障害があり、学校にも行かずに電車のエア運転をするのが日課。
母親(菅井きん)は“おそっさま”を拝みながら息子の行末を案じている。
“普通の小学生”たちは、六ちゃんに石を投げつけるが、地区の人たちは、六ちゃんをいじめるでもなく、かといって腫れ物に触るように特別扱いするでもなく、一人の人として普通に扱い、みんなそれなりに日々の営みを続けている。
これほど、障碍者とインクルーシブな関係を築いている映画はないと思う。
三船敏郎のような大スターは出ていないが、ある程度名前の知れた個性派が、もったいないくらい小さな役も含めてたくさん出演している。
それをひと通り羅列するだけで、ブログ記事の常識的な字数を突破しそうである。
六ちゃん(頭師佳孝)と母親(菅井きん)
物語の中心人物である。
菅井きんはかき揚げを揚げて生計を立てている。
朝晩法華経を唱えているのは、六ちゃんを案じてのことらしい。
母子家庭のようである。
発達障害の子どもがいる家庭は夫婦で力を合わせて子育てを、というキレイ事通りにはいかずに、離婚するケースはしばしばある(それだけ子育ては大変)。
そこまで考えた設定かどうかわからないが、そうだとするなら、とてつもないリアリティである。
六ちゃんは、朝から晩まで、寒い日も風の日も、ひたすらスラムの端から端まで「どですかでん」と言いながらエア都電運転で往復している。
絵本や、『しまじろう』でお勉強する普通のこどものように平準的な「ガタンゴトン」という表現しないところに、黒澤明の知的障害の人に対する畏敬ともいえる思いを感じる。
後に『飛び出せ!青春』の柴田良吉を演じた頭師佳孝の、数分に渡る運転士パントマイムが素晴らしい!
何より冒頭の絵のように表情が明るいのである。
川を隔てた向う側の「普通の小学生」たちは、「電車バカ」と罵って頭師佳孝に石を投げるが、スラムの人たちは決して彼を馬鹿にしない。
といって腫れ物に触るような気遣いもない。
ごく日常的な行為と受け止めている。
この当時、知的障害を偏見も同情も美化もなく、自然に描いているだけでもこの作品は評価できると私は思う。
アンチの人たちは、そのへんの価値が理解できない苦労知らず、もしくは障碍者を軽視している人たちなのだろう。
ただ、ガレキが積み上げられた貧困街の人たちの暮らしはたしかに一般的に見ると、おもしろ困った人たちである。
顔面神経痛で脚が不自由な伴淳三郎と鬼ワイフ・丹下キヨ子の夫婦
鬼ワイフ(丹下キヨ子)がタバコ咥えながら出てくると、近所の人達は顔を背ける。
八百屋のキャベツを「表面が腐ってるから」とむしって主人(谷村昌彦)に強引に量り売りさせたり、伴淳三郎が同僚を連れてきても挨拶もせず銭湯に行ったりする。
一方、伴淳三郎はガレキ街のおばさんたちに笑顔で挨拶して出勤。
ガレキ街のおばさんたちも、「旦那はいい人だけど、かみさんは……」と敬遠している。
同僚(下川辰平)が、善意で丹下キヨ子を批判すると、伴淳三郎は「ワイフは苦労した時支えてくれたんだ」と怒り出す。
私たちの暮らしにもあるだろう。
なんでこんな女房と暮らしているんだって夫婦。
でも、本人がいいと言ってんだから大きなお世話なのだ。
夫婦交換してしまった田中邦衛・吉村実子と井川比佐志・沖山秀子
2組の日雇い労働者夫婦は仲がいい。
あることがきっかけで、夫がそれぞれ相手の家に住むようになってしまい、また別のきっかけで元に戻る。
トンデモないことだが、どっちかがコソコソ不倫するよりみんながお互い様でいいだろうって感じでおおらかなところが笑える。
田中邦衛と井川比佐志は、俳優座の“同僚”として、俳優としても私生活でも馬が合うらしい。
ヘアブラシ職人(三波伸介)とガレキ街のアイドル(楠侑子)夫婦
5人の子どもは、すべてガレキ街の別々の労働者たち(人見明、二瓶正也、江幡高志=江波多寛児ら)が父親という不義の子ばかりの一家らしい。
ただ、ひたすらブラシの手の数を気にする三波伸介。
楠侑子「少しぐらい数が違ったってどうってことないじゃないか。」
三波伸介「そうかもしれないけどね、30本にしないと、俺の気が済まないんだよ」
楠侑子「あたしゃ、お前のすること見てると足の裏がムズムズしてくるよ」
かくして女房はまた浮気へ。
子供からは、「みんなが、父ちゃんの子じゃないという。本当?」と問われるが、三波伸介は明るく「人が何と言おうが、みんな父ちゃんの子どもだ」と子どもたちの前で明るく胸を張って子どもたちを安心させる。
呑んだくれオヤジ(松村達雄)と女房(辻伊万里)と姪(山崎知子)
理屈ばかり立派だが働かないオヤジと、過労で倒れた女房。
仕方なく女房の姪は寝る時間も惜しんで内職するが、疲れて寝入った時に、松村達雄がのしかかって姪を妊娠させてしまう。
その後、姪は、好きだった酒屋の店員(亀谷雅彦)を刺してしまい、それがきっかけで自分の破廉恥行為がバレそうになった松村達雄は、ガレキ街から逃げ出してしまう。
酒を飲むと気が荒くなる亭主(ジェリー藤尾)と女房(園佳也子)
何かというと喧嘩っ早い、くまん蜂の吉(ジェリー藤尾)。
だが、女房(奈良岡朋子)が間違いを犯したことで虚脱状態になってしまった男(芥川比呂志)にはシカトされても何もできず、木刀を振り回しているとき、彫金師(渡辺篤)に「手伝うよ」と言われたら「農作業じゃねえんだから」とすごすご引き下がるなど、ちょと空威張りの人。
まあ、リアルでは武勇伝がいろいろあるジェリー藤尾だが、こういう役も似合う。
園佳也子はガレキ街の井戸端女子会のメンバー。
何とミニスカートを履いている。
この作品は、根岸明美、吉村実子、沖山秀子など、男好きする肉感的な人がやたら出てくるので、園佳也子も頑張ったと思われる。
物乞いの親子(三谷昇、川瀬裕之)
アンチがこの作品を好まない最大の理由が、この親子だと思う。
おもらいで食べた鯖があたったことがきっかけで、子が死んでしまうからである。
いくらなんでも死なせちゃったら救いがないだろうということだろう。
でも、どん底ガレキ街の人びとの生活が、明るく楽しいだけでハッピーエンドだったらあまりにもウソくさい。
現実との兼ね合いで、「こういう不幸なこともあるんだよ」というキャラクターを作ったのではないかと思う。
その他、荒木道子、桑山正一、塩沢とき、三井弘次、藤原釜足、小島三児、江角英明、加藤和夫、藤原釜足、牧よし子、新村礼子などが出ていた。
人間模様がリアルに描かれている
冒頭に群像劇とご紹介したが、ガレキ街に住む人々の生活を順番に、淡々と紹介している作品である。
「人生における幸福とは、貧富や倫理や障害など、通俗的な価値観が決め手ではない」ということを言いたかったのかな、という気がする。
それは表現を変えると、貧富や倫理などで人生の価値を決めつけることを否定しているわけだが、それは決してお説教や啓蒙という形で描かれているわけではない。
ネットでは、アンチが「登場人物に救いがない」と酷評する一方で、「登場人物は憎めない人ばかり」という擁護の意見もある。
姪をはらませたり、子を死なせてしまったりすることは由々しきことだが、なぜそうなってしまうのかという、登場人物たちの人間としての弱さや愚かさも隠さず描かれている。
そこが、実は誰でもそうなるかもしれない危うさを感じ、それをもって「憎めない」という見方になるのではないだろうか。
その意味で、結論は戻るが、『どですかでん』の登場人物は、変人ではあるけれど「普通の人」とは紙一重ということである。
人間模様がリアルに描かれ、生きること、人とは何か考えさせてくれる。
だから『どですかでん』は、観れば観るほど楽しくなる奥が深いカオスな作品である。
繰り返し観ることで、さらにこの作品の奥の深さを知ることができるだろう。
以上、『どですかでん』(1970年、東宝)はゴミの集積所の一画に形成されたガレキ街を舞台に市井の人びとの生活を描いた群像劇、でした。
どですかでん – 頭師佳孝, 田中邦衛, 菅井きん, 加藤和夫, 伴淳三郎, 芥川比呂志, 松村達雄, 黒澤明, 黒澤明, 小国英雄, 橋本忍, 黒澤明, 松江陽一